6. 古代日本のDNAと その性格(2)
(参考リンク) INRI リバイバル・渡来人のDNA
(4) 日本人の ミトコンドリアDNA(mt−DNA、アンダーソン標準配列番号による)の頻度(日本人・数字%):
(参考) ”日本人になった先祖たち”、篠田謙一、2007 mt−DNAから見た日本人の祖先: List of haplogroups of historic people(有名人のハプロタイプ)
ミトコンドリアDNA(母系遺伝、 Y染色体DNAと違って形質がよく現れる、サイズが小さい(16500bp)ので古い試料でも残っている場合が多い、変異の速度がY染色体DNAに比べ速いので
狭い地域での差を知るのに有効、などの特徴がある。 1997年のDループ法より新しい分類:)から見ると、日本人のDNAは、
@ 南方系縄文人のM7系統(沖縄からアイヌまで広がっている。ただし台湾・広東にはいなく、完全に別の(陸続きの)ルートで北上したグループ)と、
A 大陸からの弥生系(ただし関東縄文人にもあり、縄文時代の初〜中期からすでに混じっている ・・・ 稲作が縄文時代からあったことの証、ただし文字文化はどちらにも無い)
のD4、D5系統 の2つに大別され、これで 全体の 60%以上になる。(これらは、Y−染色体DNA(父系遺伝)では、大体、
@は D1b系統、 Aは O2b + O3 に相当する。)
・ 弥生人(西北九州): D+G 49%(n=78)、 本土日本人: D+G 44%(n=1312)、 縄文人(関東): D+G 23%(n=56)、 cf. 縄文人(北海道): D4 0%(n=121)、南方系日本固有種のM7a、北方系のG1bは有り
Mにある D や G は、Y染色体DNAの O2b(長江・弥生系 → 2015 11改定 O1b)、O3(華北系 → 2015 11改定 O2)に相当し、ヨーロッパ系(ヤペテ)から分かれた男が アフリカ・アジア系(ハム、古モンゴロイド)の女を娶り、それが新モンゴロイドとして増えたことになる。(現れる形質は東アジア、古モンゴロイドの
D1bと同じ) ・・・ つまり、縄文人も弥生人も実質 ほとんど同じ”東アジア人”。 ミトコンドリアに関しては、韓国人と日本人の遺伝距離が近い理由。(下図)
ここで、少数派のN9系統について注目する。 まず N系統は ヨーロッパ系に分岐する枝のルートに位置し、他の
西欧、南欧、中近東(ペルシャ、アナトリア、アラビア南部)、北方ヨーロッパ・北方アジア少数民族、中央アジアとも異なる。
N系統の 子系統には N1( =I )、N2(=W) と N9 があり、N1のうちのN1b2 にはアシュケナジム・ユダヤ人が集中している。(N1b1 には全くいない。 HV1b2にも集まっている。しかし HV1b1とHV1b3はアナトリア・南コーカサス・中東のみで
はっきりと分かれている。 また Yはオホーツク沿岸民(Y染色体では C3)。)(by.英・TV番組・チャンネル4、”Dead Famous DNA”、2014年 4月9日放送、エヴァブラウンが
N1b1 の件より。 N1b1 なのでユダヤ人ではない。リンク、 Nature Asia Figure 6)
現アシュケナジム・ユダヤ人の 81%がヨーロッパ系(mt−DNAの H 20.5%(西欧・南欧)、K 31.8%(東欧)、N1b 9.2%、J6.3%(西欧) など)、中近東(ペルシャ、アナトリアなど) 8.3%、アジア1.1%(by. Nature Asia Figure 10 (2013 10))
・ 福音書の筆記者ルカ H系統(シリア人、西欧系)
N9a系統(いわゆる(りんし)人)は、黄河系の 現在の山東: 3−4%、 韓国: 3−4% (長江系の 広東、台湾には
0%)であり、山東半島の北部付け根の 遺跡の時代の異なる2種の人骨からのmt−DNAでは、2500年前ではヨーロッパ人に近く、2000年前では中央アジア人だった。(by. 2000年、東大:植田信太郎、国立遺伝学研究所:斎藤成也、中国科学院遺伝研究所:王瀝ら → 下の
(4)アジアとヨーロッパの共通祖先:、 臨シ遺跡、 トルコと分かれた臨し人)
N9aは、 九州弥生人: 8%(n=78)、 本土日本人: 4.6%(n=1312)、 (関東縄文人、アイヌ、沖縄には N9aはいない) に分布しているので、主に朝鮮半島(新羅)からの渡来人である。
ちょうどこの弥生時代〜飛鳥時代の渡来人(弓月君(377)、秦氏(5世紀後半)、蘇我氏、厩戸皇子(聖徳太子)(600前後)、羊太夫(708)、など含む)の中に、ヨーロッパ系に近い N9a系統の人々がいたことになる。 秦の始皇帝も目が青かったといわれる。
中国で戦いに敗れた亡民が 主に新羅(辰韓・秦韓)に長らく住み、対馬の国司が 彼らの王族だけをフリーパスで通した。
・・・・・ ペルシャ人も、東方キリスト教徒(INRI)も、また散らされた南ユダ(+ユダヤ文化)も入ってきた時期。
(cf. 景教は次の遣唐使の時代 → 聖徳太子の謎 の 2.と5.参照)
一方、N9b系統(N9a ≒ N9b、ほぼ兄弟関係)は、北方系日本固有種といわれている。 Yではないので、単なるオホーツク沿岸民ではない。6.9%もいる Aは、北アジア・北米系で異なる。ローマ人(HV、H等 ・・・ 韓国に一部いるラテン系H15など)でもない。
N9bは、現代日本人: 2.13%(n=1000)、 本土日本人: 2%(n=1312)、 現代アイヌ: 2.5%(n=51)、 沖縄: 4.3%(n=372)、 北海道縄文人: 64.8%(n=121(*)、糸魚川ヒスイ(蛍光X線分析)など他地域の交流有り)、 東北縄文人: 41.7%(n=12)、 富山縄文人: 38.5%(n=13、N9a 23%、小竹貝塚・91体、長身170cm有り、糸魚川ヒスイ)、 関東縄文人: 20%(n=56) と、日本中に少しずつ均一に入っていて、 N9a に比べかなり早い時期の北方系縄文人として南方系と共に生活していたと考えられる。また、海洋民として日本中に移動し、交易が盛んだったようである。
また、N9bは 北西九州弥生人、山東、韓国、台湾にはいない。アムール川下流の先住民で 10.6% なので、集団で中東から北上し、樺太・北海道に渡り、日本列島を沖縄まで南下した縄文後期〜弥生期のグループと考えられる。 14C/12C法の修正により、縄文時代はそんなに古くない。
* 北海道縄文人: 変異の大きいDループのHVR領域についてAPLP法によりSNP(一塩基多型)の検出をおこなった。その結果、N9b(64.8%), D10(16.7%), G1(11.1%), および M7a(7.4%)という4種のハプログループがそれぞれの頻度でみいだされた。N9bとG1はシベリア先住民にのみにみられる特殊な遺伝子型で、D10 も氷河期にシベリアから移住したアメリカ先住民に多いタイプである。一方、M7aは日本列島南部から東シナ海に高頻度で検出されているタイプである。(by. 札医大)
形質がヨーロッパ系に近く(N9bの芸能人のスザンヌ氏は純日本人。日本人なのに時々 西欧人のような人がいる ・・・・・ ワタシ、ニホンジン
デース)、南方系縄文人M7とは見た目も異なる、N9aよりも初期からの少数派の渡来人、となれば、 北イスラエルのエフライムの子孫の可能性がある。(「北方」経由: 北海道から「エフライム」 ・・・・ アッシリア捕囚(BC721)、メド・ペルシャによる解放の頃 ≒ 神武天皇の頃(BC660頃)、東方憧憬(<太陽崇拝)によって東のはずれの日本に来たはずである。
* アッシリア捕囚(BC721)の時、一部は、ペルシア北部(現在のクルディスタン)のメディアの諸都市に捕囚され、代わりにクト人がイスラエルに移入させられた。残りは「ゴザン川、ハボル、ヘラ、ハラ」(U列17、18、T歴5)であるが、この「ゴザン川」とは、アフガニスタン北部の都市ベラの北を流れる川(現在のアム・ダリア川)である説が有力である。アフガニスタンの伝承により、ハボルとは現在のペシャワール、ハラとは現在のハラトであり、いずれもアフガニスタンの都市である。
また、「シニムの地」(イザ49:12、43:5)とは、東の国々(パキスタン、カシミール、チベット、中国(シニム)、日本など)を意味し、終わりの時にこれらの地から帰還することが預言されている。
・ 「シニムの地から」 M ERTs SYNYM (ミ エレツ シニム: thorns
とげ (複数形)) = 秦(シン)、シナ、中国(連邦)、世界の端に住む人々(日本も含む)
⇔ cf. 朝鮮半島からの渡来人 N9a が沖縄にいないにもかかわらず、沖縄に 旧約・新約聖書の文化(2.沖縄におけるユダヤ教とキリスト教の伝承:)が残っている理由として、「海のシルクロード」経由が考えられる。: 沖縄から山陰へ「ユダ、ベニヤミン、レビ」・AD70以降。)
N9系統は、聖徳太子こと厩戸皇子がペルシャ系といわれていることとは関係なく、N1b2が 南ユダ(=Y染色体DNAでは J2a系統に相当)であるように、失われた北イスラエルの一部とみなすことができる。もしそうならば、 ∴ N9a: マナセ族、 N9b: エフライム族 の(女系の)子孫 と考えられる。
もし男系が残っているならば、J系統(アブラハムの子孫)のY染色体DNAが日本人の中から発見されなければならない。
J系統が全く発見されなければ、Y染色体DNAが C1a1(日本固有のM8・旧C1(南方系))や、C2(M217+P44+ PK2、旧C3、オホーツク沿岸・アルタイ語族(モンゴル、チンギスハン C3c(M48))、北アメリカC3b)とは異なる、
ある C系統集団(M43・旧C3a(北方系)?)にかこわれた一夫多妻の子孫がまとまって移住したのかもしれない。Y染色体DNAの Cは”形だけ”で、外面に現れる形質の実質はmt−DNAの N9bである混血人種。 北方沿岸の漁労民ならば、東北地方の古い民謡や はやしことばなどに、ユダヤ文化が残っているのもうなずける。(アイヌ語は地名に、ヘブライ語は言葉(3000語!)に、それぞれ残った。(アイヌ語・地名))
ただし、現代アイヌは、C3c 15%(cf. 日本の他地域は沖縄まで C3a + C1(南方系) の日本固有種)、mt−DNAでは Y20%で、後の時代にニヴフ族(C3c
42%、Y1 66%)などの影響を受け オホーツク文化を形成。 元々のアイヌの
D1b(旧D2)は本土と同じで、古い”神道用語”(カミ(神)−カムイ(神々)、タマ(霊)−タマ、ヒト−ピト、イノチ−イノツ、ラマ(魂)−ラマツなど)だけは日本語と共通している。他の言葉は全く異なる。 そして、日本神道とヘブライ文化は、それぞれの担い手のDNAが異なることから、初めから接点が無い
別物であることが分かる。
「娘たちは垣を越える」(創世記49:22、 ↓(6))
「エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子(*)となる。」(ホセア7:8) ・・・・・ * 片面だけ焼け裏側が生 の意、 形式的に神・主に仕え、一方では異邦・この世に頼ること。 DNAも 半分は異邦人。 それでも当初は 常に集団で移動し、沈黙交易により民族の純血を守ろうとしていた(↓)。
* アイヌ人の小人伝説は北海道や南千島、樺太に広く流布 (by.wiki コロポックル) ・・・・ アイヌ: D1b・M7a + C3c・Y、 コロポックル: C3a?・N9b
アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロボックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。彼らはアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。(=沈黙交易、千島アイヌにこの風習残る)
そんなある日、あるアイヌの若者がコロボックルの姿を見ようと贈り物を差し入れる時を待ち伏せ、その手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青(=文身)があったという(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれている)。コロボックルは青年の無礼に激怒し、一族を挙げて北の海の彼方へと去ってしまった。以降、アイヌの人々はコロボックルの姿を見ることはなくなったという。現在でも土地のあちこちに残る竪穴や地面を掘ると出てくる石器や土器は、彼らがかつてこの土地にいた名残である。
(ただし、元々のアイヌの伝承に出てくるコロポックルの身長はアイヌより少し小柄な程度。)
(5) 皇室のDNA: (10/1 追加)
「 ・・・ それら(偶像)を拝んではならない。それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5、6。
十戒の第1、2戒)
・ 天皇家(皇室)のY染色体DNAは、東山天皇(113代、1675−1710)の男系子孫(複数名)の口腔内粘膜の分析より、D1b(M64.1)の
D1b1a2(旧D2a1b)、すなわち縄文系であることが判明している。(→ 参考1、 参考2、 参考3 ・・・ 2014年1月) 徳川家も同じD1b1a2。 明治天皇も 東山天皇の男系子孫。 このD1b1a2系統は、東日本と、兵庫、京都に多く分布している。 このように、皇室、神官、源氏は縄文系ということになり、ネイティブな日本人(=ノアの洪水後、誰もいなかった日本の地に、一番最初に入った人々、縄文人)である。 (cf. 一説に、天皇家は朝鮮系の O2b1a(47z)とも言われているが、この説の根拠は全く示されていない。)
日本に戦争を起こさせた 近衛文麿も、母系では藤原忠通の家系であるが、男系は後陽成天皇(107代、1571-1617)の12世孫で、同じ D1b1a2(旧D2a1b)。このことによっても、天皇家が南方縄文系であることを示している。(→ 参考4)
また、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の子孫と言われる人々のデータにより、同様にD1b(M64.1)であると推測されている。ただし、直接的な可愛の山陵(宮内庁所管)、男狭穂塚の被葬者の学術調査はなされていない。伝承による天皇家発祥の地は日向であり、南九州は縄文系の血が濃い場所である。(→ 参考5)
・・・・・ 残念ながら、現在の皇族は「ユダヤ系」そのものではないらしい。 ただし、男系の万世一系になったのは欽明(29代)からで、それ以前は
北イスラエルの子孫だった可能性がある。 継体(27代)の妻は仁賢(24代)の娘の
手白香皇女(たしらかのひめみこ)であり、継体は応神から5代目(↓)。(日本書紀の系図一巻が失われたためこの程度しか分かっていない) (記紀の系図、 (参考)天皇家の系図) あるいは、15代 応神天皇直前の数代では男系が切れ、女系でつながっていた可能性が大きい。
14代の仲哀の皇后の息長帯ひめ(おきながたらしひめ)は、=神功として、仲哀をしのいで実権を握っていた。仲哀はクマソ侵攻を、皇后の神功は朝鮮半島侵攻を主張し対立したので、当然不仲であり、神功は子孫を残すために、周りにたくさんいたD系統の別の男によって応神を生んだとしてもおかしくない。
15代は 神功/応神 としてしばしば系図に書かれている。 ・・・ このあたりで
D系統が入ったと思われる。
また、日本神話の系図(↓)が 聖書のヤコブからヨシュアのカナン征服までの記事とそっくりで、特に
エフライムの部分を含んでいる。(ウガヤフキアエズ=エフライム、もちろんユダヤ系渡来人による後世の創作の可能性はあるが)
神武天皇の称号は、カム ヤマト イワレ ビコ スメラ ミコト であって、音をヘブライ語に当てはめると (いくつかの解釈があるが、少なくとも)『ヘブライのサマリア(北イスラエルの首都)の長子』となる。(→ 聖書修復(2)の おまけの(2) )
もし、『神武天皇なる人物』(BC660頃)が渡来人の北イスラエルのエフライム族(あるいは ガド族)であり、なおかつ 「主を愛し、主の命令を守る者」であったならば、「恵みは千代(1000代)にまで施される」(出エジプト20:6)という律法(旧約=イスラエルに限定された古い契約)が 預言的に成就したはずである。
歴史を見ても、奈良・平安時代の謀略(道鏡、藤原氏など)、武士の台頭、徳川幕府成立時、太平洋戦争後の処理などの度重なる存続の危機にもかかわらず、天皇家が世界一長い期間存続(2600年、 cf. 2位のイギリス王室で1000年)し、対外的に日本がいかに幸運だったかの裏付けになっている。( ↓ + 下の預言と祝福)
単なるD系統では、そこそこの繁栄にしかならない。(源氏:鎌倉時代(148年)、徳川:江戸時代(265年)。
因みに、YAPはアフリカ系のE系統にもあり、イントロンの部分なので、形質にはほとんど意味を持たない。)
・ 昭和天皇はクリスチャンだったのでマッカーサーにより命拾いした。平成天皇も戦後
キリスト教教育を受けられ クリスチャンである。(* どちらも写真による「霊の見分け」では○、救われている! cf. 秋篠宮の奥様は× ;久高島で願をかけたからか。 雅子様、愛子様は共に○)
そして、応神天皇の頃(377)より ペルシャ、ユダヤ系の渡来人(=秦人)の協力によって 急に勢力を拡大していった。新羅よりの臨シ人系の渡来人たちは、mt−DNAのN9a系統(トルコよりもヨーロッパ人側の分岐)で、中東・ユダヤ系に近い人種である。 彼らによって、伝統的な日本文化の根底に ユダヤ的な文化が形成された。
(一方、百済の難民(統一新羅時代)の渡来人そのものか、あるいは、多くの彼らを受け入れた 藤原氏(中臣鎌足)は、政治的策略によって天皇・源氏とは別の一大勢力の流れになっていった。彼らが日本書紀などを通じて歴史そのものを大幅に改ざんし、日本を偶像だらけの”仏像国”にすり替えていったのである。 ・・・ 藤原氏: O3系(→ 2015 11改定 O2、華北系)の 鮮卑・百済民族。(参考6))
・ また、人種的な 北イスラエルの子孫(エフライム)らしい民 ・・・ これが本来の天皇家か ・・・ も、(母系遺伝のミトコンドリアDNAとして、)
現在も少数ながら(2−4%)存在する。(mt−DNAの N9b) イスラエルの子孫ならば、(日本の文化的なユダヤ性と合わせて、)しるしと不思議を伴う福音宣教により 外国の民族よりも素早く 救われるはずである。(「(オリーブの)栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」(ローマ11:24))
・ 六日戦争(1967・6)、バルフォア宣言(1917・11) の49年前の「ヨベルの年」(レビ25:10−13)の 1868年10/12に、明治天皇が即位し、10/23明治元年に改元し、現在の皇居へ移った。 ・・・ 北イスラエルの末裔の王が
「自分の土地・本来の召し・立場に帰った」ことの成就、 と考えられ、このこともイスラエルのしるしとなっている。(ただし、現在の天皇がイスラエルに帰還するというわけではない。イザヤ41:2 の間違い解釈に注意)
(6) まとめ ・・・ 日本人の のろいと祝福:
日本人に無い E系統については、 「のろわれよ、カナン。カナンは僕らの僕となれ。」(創世記9:25) と、ノアの のろいがかけられている。(セムとヤペテへの祝福は、ヤペテが セムの天幕(セムの宗教: キリスト教)に住む ことによって成就した。) この のろいは、父ノアに(性的な)罪を犯したハム本人にではなく、(預言的に、)カナンをはじめとする E系統について語られている。 その後の歴史は、創世記10章に書かれているハムの子孫は、
クシュ(エチオピア)、ミツライム(エジプト)、プテ(今のリビアなど)、カナン(死海・パレスチナの低地)
という E系統のみを対象にしていて、特に、カナンの子孫から (7つのうちの)6つの「聖絶の民」(申命記7:1−5)が出た。
新約時代には、E系統の黒人(E1a)は、西アフリカからの奴隷貿易の対象にされた。
世界を震撼させた、「反キリスト」の雛形であるアドルフ・ヒトラーも 地中海・南欧型のE1bである。
歴代のローマ法王の多くもE1b型。
また、J1系統のアラブ人(イスラム教の創始者ムハンマドもJ1)は、父系はセムであるが、イシュマエルの母ハガルは エジプト人の奴隷だったので、X染色体や ミトコンドリアDNAには 色濃くハムの子孫の E系統の血が入っていて、イスラム教という”盲従型、奴隷型”宗教に囚われている。教派間の抗争は激しく、「兄弟たちは互いに敵対して住んだ」(創世記25:18)と書かれているとおりである。
そして「ゴグ・マゴグ」(エゼキエル38)の時には、イスラエルを取り囲んだその軍隊は互いに同士討ちして滅亡する。
一方、D系統のグループの一つである 日本人(縄文系)もまた、ハムの子孫であるが、直接はノアの のろいを受けてはいない。しかし、アニミズムや偶像好きな性質は ハム系固有のものであると考えられる。
大戦時、軍部が天皇を神格化して、神道を利用して 国民を戦争に駆り立て、間違った士気を上げさせたのは、紛れも無く
アフリカ発祥のアニミズムの霊による 霊的なものだった。妥協した牧師も、神道崇拝に用いられた。
また、江戸時代のキリシタン迫害が徹底していたことなど、反キリスト的な性格が強く、本当の神に対し 大変な罪を犯してきた民族である。
「西からは主の御名が、 太陽の上る 東からは 主の栄光(名誉)が 恐れられる。 主は 激しい川の流れのように来られ、主の霊が 激しく吹きまくる。」(イザヤ59:19)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血(=血統)によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12、13)
・・・・・ しかし、このような罪深い歴史を持つ日本であるにもかかわらず、時が来て、主は 終末のリバイバルのために あえて、「東の日出国」日本を用いてくださる。 DNAによらず =「血筋によらず」(ヨハネ1:13)、ただ「信仰」によって神の民とされるので、主が計画しておられた「東からのリバイバル」に、価なしに無条件で 用いられるはずである。 罪を悔い改めて、御子イエス様の十字架の血によって贖われた者は、あらゆる のろいから解放されている。 そして、主は「言葉の神」であり、語ったことを必ず成し遂げる「聖なる神」である。(イザヤ55:11)
また不思議なことに、”君が代”のヘブライ語音訳が 「預言歌」になっている。( → 日本の霊的状況 ) これによれば、6つのイスラエルの残りの民(レムナント)が日本にいることになる。(6つの残りの民とは、 (南) ユダ、ベニヤミン、レビ、 (北)
エフライム、マナセ、ガド と考えられる。 SheSh・シェシ は決して”喜べ”ではなく、”6”の意味)
マナセ族はミャンマーなどに、北イスラエルのその他はアフガニスタン等にいる。( → アミシャブによる10部族の調査結果 )
リバイバルの時には、さらに 次の「ヨセフ(=エフライムとマナセ)への祝福」=「霊的イスラエルの祝福」(by. ヤコブ、 モーセ)が 成就していく。
「ヨセフの子孫は実を結ぶ枝。 娘たちは壁を越えて行進する。」(創世記49:22〜26) ・・・ ヤコブによる終わりの日の預言
1.「主からのあらゆる賜物」、2.「野牛の角で国々の民を突き押していく」(申命記33:13〜17) ・・・ モーセの祝福